有隣寺 声のたより < 一 >

ー忘れないよ、だって仏さまになったんだものー

法話を読む
 ジリジリと夏の太陽が肌を焼いていきます。
 お変わりありませんか? 住職の祖父江佳乃でございます。
 今年もお盆の季節がやって参りました。
「ねえ、死んだらどうなるの?」、「死んだらどこに行くの?」。
 この言葉は徳風幼児園の園児の口からこぼれおちた言葉です。幼い子供たちでも、その疑問は頭の中を駆け巡ります。その質問を受けたとき、私はしっかりとむきあって話をします。
「本堂に上がって、阿弥陀さまの手前にいらっしゃる仏さまをみてごらん、あのお姿が亡くなった人が仏さまになった姿だよ」。
 有隣寺の欄間には手を合わせている仏さま、楽を奏でる仏さまがお空から私たちを守っておいで下さる姿が施してあります。
 上を向いてその姿を眺める園児たち。一所懸命にお荘厳を穴のあくほど見てくれます。そしてその後は、誰からともなく手が合わさります。合掌する姿。人間がその身体をもちいて、最も簡単に作り上げることのできる美の形が合掌の姿です。子供らしい自由さで自然に手が合わさるその光景に目頭が熱くなります。
「僕ね、おじいちゃん死んだけど、忘れないよ。だって、おじいちゃん、いつも僕を見てるもん」。
 背負った子に教えられるというのは、このことだと感じました。
 死んだ人はどこへ行くのだろう。疑問を持ったら、有隣寺の本堂で座ってみてください。向き合うことで沢山のことが見えてきます。泣くも、笑うも、怒るも、苦しむも、楽しむも、本堂は全てのことを受け止める場所です。なぜなら、本堂は仏さまと向き合う場所だからです。