有隣寺 声のたより < 二 >

ー親鸞さんのお盆ー

法話を読む
 お盆の季節がやってきます。
 お変わりありませんか? 住職の祖父江佳乃でございます。
 汗をかきかき、お内仏に縁ある人が集まって、それぞれが仏さまに、果物やお菓子を供え、みんなで手を合わせて、一緒にお経をいただく。懐かしい顔がそろったら、お供え物をお相伴しながら、にこやかに晩夏の風を感じる。日本の伝統的な仏事、お盆です。
『仏説孟蘭盆経』には、お釈迦さまの十弟子のひとり、目連が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母を助けようとお釈迦さまに知恵をかり、布施の功徳を積み、母を救ったことが記されています。そこから、先祖供養の仏事として、お盆は認識されています。先達への畏敬と感謝に伴う儀礼は大切ですが、真宗の儀礼、手を合わせロからこぼれ落ちる南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の『お念仏』は、それとは違う意味を持っています。本願寺第八代・蓮如上人は、

 他宗には親のため、またなにのためなんどとて、念仏をつかふなり。聖人の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。『蓮如上人御一代記聞書』

と、お念仏は先祖供養の道具ではないと、おっしゃっておいでです。「南無阿弥陀仏」と私の口からこぼれでるお念仏ですが、それは、「弥陀の御もよおしにあずかった、如来よりたまわった信心」です。ですから、お念仏とは先祖のためのものではなく、主体は 「私」です。なぜなら、私自身を見つめたとき、私の腹の中は、財産も名誉も地位も、ここで満足することは一向になく、もっともっとを望んでいます。それは、欲しい欲しいと餓え、渇き、苦しむ餓鬼と何ら変わらないのです。どれだけ手にしても、どれだけつかんでも、まだまだまだと、欲しがり続けています。その、あさましさに気付いたのであれば、手を合わせずにはおれなくなります。そして、手を合わせると、自然と口からお念仏がこぼれます。これが真実なのです。自然とは自力のはからいではなく、如来の本願によるものです。

 煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。『歎異抄』

 怒り、妬み、嫉みの心を持ちあわせている凡夫の私は、不安で移ろいやすい世界に身を置き、空ごと、戯ごとばかりで、真実など一つも持ちあわせてはいません。ただ、阿弥陀さまより賜ったお念仏だけが、まことなのです。怒り妬み嫉みの心そのままで、救ってくださる弥陀の本願こそが、真実。お念仏は他力であり、私をめがけているのです。 めがけているというのは願われているということです。
 餓鬼のような道を歩んでおる凡夫だからこそ、救わずにはおれないという本願に人は出あいつづけ、お念仏をこぼしてきました。その真実を、もう一度、縁ある人が、お内仏に向かって手を合わせ確認する。それが、浄土真宗のお盆です。