有隣寺 声のたより < 三 >

ーだいじ、だいじ、君がだいじー

法話を読む
だいじ だいじ きみがだいじ
だって、君は願われて生まれてきた
その証拠に君には名前がある
名前は君が願われて生まれてきた証拠
だいじな君 願われて生まれてきた君
だから 阿弥陀様は あんなに目を細めて 君を愛しい可愛いと
君をそのお光で包んでくださっている
君が自分のだいじさに 願われた自身だと気付いていく
それが手を合わせるという事
たくさん たくさん 手を合わせて その人事を身に着けてほしい
大事なことが身についたなら きっと忘れることないはずだから
だいじ だいじ きみがだいじ

 お変わりありませんか、住職の祖父江佳乃でございます。
 誰一人として、自分の思いによって生まれた人はいません。深い御縁あって生まれた願われたいのち。仏さまの身光に照らされていること、仏の光の中で生きていいること、自分の尊さに出遇う、それが合掌です。
 願われた自身、ですが、その自身こそが、一番当てにならないのも自分です。思い通りにならないことをいつも望み、真実と向き合うことを避け続ける、それが私です。
 思い通りになるはずのないことを、思い通りにしようとする愛着、それは、愚かさによって生じる。とお釈迦さまは、おっしゃっておいでです。
 また、愛着や愚かさのために、ひとは行き詰まり苦しみ悩まなければならない。ともおっしゃっておいでです。その、愚かさの闇を破るのが、仏様の智慧です。その智慧は私たちに慈悲として働いているのです。それを形として荘厳として表しているのが、阿弥陀さまの後ろにみえる放射線状に放たれた光、御光明なのです。
 光明とは、闇を破り願いを満たす働きです。そして、その願いが 「南無阿弥陀仏」なのです。
愛着や愚かさを持ち合わせている私が、その身そのままで救われる、自身が願われている「いのち」だと自覚する、それが、「なみあみだぶつ」のお念仏です。そのことを一生涯かけて私たちに伝えてくださったのが親鸞聖人です。
 親鸞さまは、師である法然上人との出遇いを通して「生死出ずべき道」=凡夫がその身そのままで往生する道を見出されました。生きる道を失い、生きる意欲もなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる拠り処を「南無阿弥陀仏」本願念仏の道に見いだされたのです。それは間違いなく大いなる光、光明に包まれた智慧です。
 手を合わせてください。そして、「なみあみだぶつ」を称えてください。そして、ご自身がかけがえのない、願われたいのちを生きていることを御あじわいいだけたらと思います。